教室という異空間

不登校

 学校の教室という空間には、それぞれの思い出があることでしょう。

 学校に行くのが楽しかった人にとっては、仲間と笑顔で過ごした鮮やかな思い出があり、学校に行くのが辛かった人にとっては、一人で過ごしていたモノクロな思い出があることでしょう。

 僕自身は後者でした。ただ、小中高、常にそうだったわけでなく、そういう時期もありました。でも、いわゆる「クラスカースト」の最上位にはいた時期はありませんでした。

 「学校に行くのが楽しい」、「友達と過ごすのが楽しい」という人にとっては、「学校に行けない」、「教室に入りたくない」という人の気持ちは微塵も理解できないことと思います。

 これは性格の問題です。少ない友人と穏やかに過ごすのが好きで、周囲にどう思われているか気になっていた僕にとっては、特に中学時代は教室に行くのが嫌な時期もありました。本当は周囲に合わせたくないのに、合わせなきゃならないと思っていました。いわゆる同調圧力ですね。

 このプレッシャーは、年齢を重ねるごとに少しずつ感じることが減り、高校3年次はほとんどそう思っていませんでした。そして、大学に行き、固定された学級というものがなくなってから、僕はずいぶん生きていくのが楽になりました。「自分の好きなように行動していいんだ」と思えるようになりました。

 実は今でも、職員室という空間は好きではありません(笑)。でも、子供の頃と違い、精神的に成長したので、何とか仕事はできています。それでも、大勢の人と一緒の空間にいるというのはあまり好きではありません(笑)。

 かつての僕が感じていたような思いをしている児童生徒は、今の時代も一定数いることでしょう。そして、その子供たちが不登校になっている場合もあるでしょう。僕自身も正直、親に嘘を言って学校を休んだことが数回あります。でも、不登校にならなかったのは「学校には行かなきゃならない」、「親に申し訳ない」と思っていたからでした。こう思わせるかどうかが家庭の教育力のちがいでしょう

 「教室に行きたくない」と感じている児童生徒を、家庭の力以外で救う方法は2つあります。一つは、学級というシステムを解体することです。これは諸刃の剣であり、劇薬ですが、学級という固定された組織が居心地を悪くさせるのです。大学のように、授業ごとにメンバーを変えることによって(一人一台端末が導入されたことにより将来的に可能になると思っています)、空間の雰囲気はずいぶん変わることと思います。

 二つ目は、担任の学級経営です。これについては、これまで教職をしてきて身に染みて感じますが、学級経営が上手な先生の学級は、いじめや不登校が少ないのです。アメとムチの使い分けがうまく、子供たちのつながりを上手に作り、一人一人が安心して過ごせる学級をつくります。そのため、いじめや不登校が少なくなるのです。

 ただ、このような力をもった先生は、若年層の教員が増加するのに伴い、減っていくと思われます。そして、この力は経験によって身についていくものでもあると同時に、もともと備わっているものでもあります。僕自身は、経験によって少しずつできるようになっていった感じはありますが、それほど上手にすることはできませんでした。そういう意味では自分は担任業は向いていないと判断しています。

 将来的には、明治以来約150年変わっていない学校というシステムは少しずつ変わっていくものと思います。僕が本ブログで以前から書いているように、義務教育段階における就学義務制度の変更という大転換をすれば、不登校という概念はなくなると思いますが、それよりも学習システムの変更の方が現実的でしょう。これは、できる学校から実証的に進められていき、全国的に広まっていくと思います。

 時代や社会状況の変化により、教室という閉鎖された異空間に馴染めない子供は増える一方です。制度をつくる・変更できる権力を持っている方々の大胆な発想が待たれます。

 

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