【ブックレビュー】2040教育のミライ

ブックレビュー

 今回は、先の記事でも取り上げた磯津政明著『2040教育のミライ』をレビューします。

 初めて読む著者の本を読んでいると、「この著者と実際に話をしてみたいなぁ」とか「謙虚な方なんだろうなぁ」とか思うこともありますし、逆に「偉そうなことを書くなぁ」とか「面と向かって話しても話が合わないだろうなぁ」とか思うこともあります。今回の著者は僕にとって後者でした。

 正直、途中で読むのを止めようとも思いましたが、文章は平易で読みやすかったので最後まで読みました。

 著者を含む、学校現場を経験していない民間の人が、教育について語るときにありがちなのは「学校現場はダメだ、教員はダメだ」ということです。勿論、ここまで明言はしていませんが、おそらくこういう考えを持っているだろうと思われる表現が散見されます。

 そもそも著者は「教育」とはいかなるものかを勘違いしています。「教育を担うのは文科省と教員だけではない」(50頁)とも書いていますが、文科省や教員に対するダメ出しをあちこちでしています。

 教育とは、学校教育が全てではありません。我々はほぼ皆、学校教育を経験するため、教育=学校教育であり、人間の人格形成に影響を及ぼすのは学校であるような認識をもちますが、教育の基礎は家庭教育であり、社会教育などもあります。著者は学校教育や教員ができない部分、できていない部分を指摘しながら、「民間はこんなことできる」、「家庭ではこんなことできる」と豪語しています。学校教育や教員は完璧ではありませんので、できていない部分については遠慮なく補っていただければ結構ですよ。

 具体的には、「二人の中高生の娘の父親として、自分なりに「教育のリアル」に関わってきた」(40頁)とあり、二人の娘のエピソードがしばしば登場しますが、「はいはい、あなたの娘が素晴らしいのはわかりました」という感じです。まともな人間なら、人前で子供の自慢はしませんし、親として子供の将来に関わっていくのは当然のことです。「教育のリアル」でも何でもなく、父親としての役割を果たしているだけです。家庭教育をしているだけです。

 その他、「学校の勉強と実社会と関連付けることが苦手な教員が公立校に多い」(212頁)、「教員のデジタルリテラシーの低さ」(256頁)等、教員の能力の低さを指摘する記載もあります。

 教員の人間的未熟さを指摘するとき、教員が民間を経験していないことよく言われますが、これは仕方のないことであると思います(そもそも、民間を経験していれば成熟した人間になるのかとも思いますが)。だからこそ、「実社会と関連付ける」ような教育に関しては、外部の人間を招聘すれば良いと思っています。それは教員の役割ではありません

 デジタルリテラシーも然りです。本来、学校教育の場は、先生と子供、子供と子供という生身の人間の関わり合いの場であり、そこにデジタル機器は必要ありません。近年、急速にデジタル機器が導入・整備され、それらを利活用することが求められていますが、それらを利用しなくても質の高い授業ができる先生は一定数います。デジタルリテラシーなんんて、低くて当然です。著者のように幼少頃からプログラミングに興味を持っていた先生なんてほぼいないでしょうから。

 著者が提唱する「個を軸にした学び」、「探求型学習」などの学習の重要性はわかります(これらの学びの方法も著者独自のものではなく、多くの識者が言っています)。肝心なのは、「これらを実現するためにどうすればよいのか?」ということです。言うは易しです。

 僕は、これらの学びを実現するのは、少人数制の導入しかないと思っています。1つの学習集団を15人以下にするしかないと思っています。少人数制を導入するには、先の記事でも書いた、就学義務の定義の変更しかないと思っています。大きな改革ですが、これにより、学校教育が抱える現在の諸問題はほぼ解決できます。

 本書で紹介されている、民間で開発された数々の技術を学校現場に導入するのは大賛成ですので、「日頃文科省、経産省、総務省それぞれの方々とお話させていただく」(58頁)機会がある、著者の幅広い人脈を駆使して、一刻も早く実現していただきたいと思っています

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